静岡一番モノガタリ/いちごと観光
情熱と歴史、おいしさを継ぐ
石垣いちご栽培の祖「常吉いちご園」四代目
川島 常雄 さん
「石垣いちご誕生の家」
沿道でくるくると風船をまわす「いちご娘」が風物詩、国道150号久能街道。この一帯で栽培されるいちごは、他の地域では類を見ない方法で栽培されています。久能山東照宮入口の鳥居をくぐり、すぐの場所にある「常吉いちご園」。その初代・川島常吉翁が広めた、石垣栽培という方法です。 明治維新の折、常吉翁はこの地で営んでいた宿屋を廃業し、久能山東照宮で仕えました。明治29年頃、時の松平健雄宮司から手土産としてアメリカ産いちごを譲り受け、植え付けを試みたそうです。子株を育て、苗を畑に植えたり鉢に植えたりして工夫を重ねました。この時、桃畑にある土留めの石垣の間に植えた苗が、他の場所で植えたものよりも発育がよく、大きな甘い実をつけたそうです。ここで、発育の要因が太陽の光を浴びた石垣の輻射熱にあることに気づきました。「久能石垣いちご」誕生の瞬間です。 栽培を始めたばかりの常吉翁は、実のなったいちごを担ぎ、ひとつひとつ売って歩きました。まさに商の根幹にある姿です。二代目に代替わりした後も普及は続き、石垣いちごのおいしさはみるみる世に知れ渡りました。やがてその情熱は地域を巻きこみ、久能山一帯の農家が皆、石垣いちごを栽培するまでに! 暫くしてこの地域で始まった「いちご狩り」こそが、観光いちご狩りの発祥といわれています。
「石垣いちごを広めた初代の情熱を継いでいきたい」。そう語るのは、常吉いちご園四代目の常雄さん。やわらかい表情に似つかわしくないがっちりとした体躯、分厚い掌が印象的でした。常吉いちご園では、小魚の骨や貝類の殻を有機肥料としていちごを育てています。育てるには石垣を動かす作業も伴うため、その苦労は想像に固くありません。彼の手の固さや体格は、そうして培われたものでした。常吉翁の「常」と東照宮・松平健雄宮司の「雄」から字を受け継いだ常雄さん。「お客さんがね、気持ちを運んできてくれるんですよ。来年も、おいしいいちごを育てようっていう」。引き継がれた伝統は、作り手の情熱と、食す人々の笑顔で結ばれているようでした。
久能街道には現在、100を超える農家が石垣いちご栽培に取り組んでいます。静岡といえば紅ほっぺや章姫が思い浮かびますが、各農家において、新たな品種も積極的に開発されてきました。常吉いちご園には、なんと完熟時に糖度25度という、信じられない甘さの「かなみひめ」という品種があります。「たった一粒召し上がったお客様がかなみひめのファンとなって、再訪してくださるケースがたくさんあります。そのお客さまから手土産やお遣いという過程を経て、さらに多くの人々に伝わって……。たった一粒です。愛情込めて育てれば、たった一粒から可能性は無限に広がっていくことを学びました」。とても嬉しそうに、常雄さんはそう話してくれました。ただ伝統を継ぐのではなく、未来にむけて試行錯誤を重ね、新しいおいしさを届ける。その情熱は、静岡の誇りです。
店は久能山東照宮入口の鳥居をくぐり、石畳を歩いて左手に。
現在の石垣はコンクリートだが、石垣栽培が始まった当初は玉石を楔になるように積んでいた。海に面する久能において「そこにあるものだけを使って栽培した」証だ。写真は常吉いちご園・初代が最初に使った玉石。当時栽培した「福羽苺」の苗とともに保存されている。
いちごの固定概念を覆すような甘さの「かなみひめ」。 完全に熟したものはいちご狩りの際に提供している。
常吉いちご園四代目の川島常雄さん。いちごに語りかけるような仕草が印象的だった。